深刻な誤訳だとみていますが、合衆国を正確に訳せば合州国です。
民主・全体主義と話を進めるまえに、そちらの前提理解が怪しい。

書きぶりを読むかぎり、「なんにしても」とか「ともかく」を使いたがりますね。
思想の厳格性をさいごまで維持できずに、感情的に流れてしまってはただの繰り返しです。
忘れているようですが“肝心なとき‘’というのはそのさき幾度もやってきます。

思想と感情の食い違いがずれを生む。
そうした階級、ずれた高低のために、苦しみも誤魔化しも、出てこなければならなくなったのではないですか。

 

 

交流の輪

以下お返事。

 

 

お久しぶりです。

一応、コメント欄は承認制ですがチェックしています。そこから話題がうまれていたのですか、どおりで。

あずかり知らないところで、勝手に広められると困りますね。度が過ぎれば機関に通報しますし、私も状況確認のため申請することがあります。

おそらく、彼らも好きで続けているのでは?

好きなことに熱中するあまりに、重要な問題を見過ごすこともあります。

自分や自分の環境を改善する目的で行っていることが、実のところ只自分が好きなことを勝手にやっているだけということが往々にしてあるのです。

 

東日本大震災などの震災後も、ある種の権威が他者をたやすく侵害する事象が露悪的に広がりました(現在も地続きです)。

非常事態であればあるほど、ふかく考えず我慢を強いる集団の姿勢は弱者を追いつめます。

一方は善意として主張するために、安易にうけとる観衆や傍観者はそちらに追従しやすい面があります。なお集団として声が大きければ優位になる。マスメディアの作用等も熟慮する面です。

一方的な主張に多数が加わると「やってやったのに」という思考を強制する暴力となって、相手側は摩耗のすえ押し通されやすいのです。

また、判決によっては「被害を受けた当人がハラスメントだというのだから、その限りで謝罪します」という言い方もあります。

自らの行為を否認していないが、被害者に判断を委ねている。ここまでくると丁寧な加害者といった印象です。

 

日常的にみられる態度としてはこのような用語もあります。

『Microaggression(マイクロアグレッション)』

なお、用語の批判派として「悪意がないのに悪役に仕立て上げられる」とする声もあります。

 

肝心なことは、無意味に不安を煽ったり、腹の探り合いをすすめるような集団にはならず、素直に対応する態度でいることです。

もちろんそうした対応にいたるには、発信者に真意を尋ねたり建設的に対話しようとする冷静さがお互いに求められます。

 

    

そのような態度を阻害してきたものは何だったのでしょうか。

絶対に弱みを見せたくないという強がり、恥をかきたくない気持ち、相手より上に立ちたいという傲慢、損得勘定による保身、比べてよく見られたいとおもう虚飾。

 

誰もが自分の心を虚心にみつめると、他人に対しては自分に向けるものとは全く違う態度をとっているということは、認めざるをえません。

あれが気にくわない、そこが癪にさわるとかですね。

他人どうしなのだから、受けとる感情がまるっきり同じではないのです。

自分を説くように(謙虚であるように)他人を説くならば、内省が欠かせないのです。

_なぜ彼らがそのように行動するのか、一体どんな問題を抱えているのか、自らの立場をどのように弁解するのか。

_どうしたら、彼らとの摩擦を避けることができるのか。

これらの理解や考えに努める態度は、不仁や不義の人を叩くことではありません。

 

物事をわかりにくくするために自らの自尊心を障碍にしては、何もみえません。

それは正義とは程遠いものです。

 

    

 

 

落ち着きましたか?

それでは、また今度お話ししましょう。

 

 

健やかでありますように


私たちが人の話をきくとき
何かしら相手が言おうとすることを大まかに把握することはできるが、伝えられた内容の理解は曖昧なものになる。
〝完全に理解〟してはいないのである。

新聞ひとつを取っても
インターネットを一切使わずに〝自分一人で記事の内容を完全に理解できる〟だろうか。
ある土地についての記事となると、そこは地図としてはどれほどの規模なのか、さらにその土地の偉人についての内容もあれば、歴史に関する古地図や往時の時代背景なども調べる必要がある。


専門家が、著名人がそう言っていたから。
時代は違えど、歴史的に有名な著名人や専門家がこう言っていたから。
それらは名前を出す責任を担った各人の意見であって、そのまま担いで理由とする人の意見ではない。
当然ながら、親しみを込めるためなどの理由があれば、相手に敬意をはらわなくてもいいという道理もない。

それが働くなら、おなじ人間として自分も相手と同様にうける〝立場〟に立たなくてはならない。

 

社会というものは言葉から成り立っているといえる。
まず基本として、言葉は全人類の個体差をこえた共通の手段(方法)だ。
人は人による翻訳の路をこえて、意思を伝えあう。まさに絵画は、この翻訳を介さずに伝えるように。

この手段をつかう人間を抜きにして社会は構成されない。

前述したような言葉への理解がなければ、
共有された豊富な知識、新たな社会経済情勢に必須とされるインテリジェンスが欠けていることになる。
社会には格差があり二極化しているとされるが、以上にある言葉から成り立つ社会においてはこう捉えられる。

その低いとされる一極というのは、相手を感じとる情緒といった理解力や知性という土台において_
自分以外の他者や異文化
自分以外の世界観がもつ意向や立場への理解をおざなりにしている人々だ。

 

出典:コトバンク

kotobank.jp

 

自分を変えずに他者が変わればいいという発想は、自分にはすべての道徳に関する責任がないと言っているのに等しい。
これは抜け落ちてしまうと、大変な事態になる思想でもある。
「自分にはすべての道徳に関する責任がない」のであれば「他者も同様にすべての道徳に関する責任がない」のであり、ともすれば、あなたの平和な日常を脅かすことさえ許す考えになるからだ。


出典:法務省ウェブサイト (https://www.moj.go.jp/JINKEN/kadai.html

法務省:主な人権課題

 


正直に言って、それがまかり通る社会となると気楽につぶやくことも出来ない。
ネット上で起きた人権侵害が原因となったうつ病や自殺が引き起こされるように、言葉は使う人間によって物理的な暴力を呼びよせている。

 

たとえ不慣れであっても自覚や理解する姿勢を獲得していくと、他者と同様に自分にも批判できるようになっていく。
「経験上、このケースでは自分の意見が正しいに決まってる」
「また考え直すなんて、めんどくさい」
「自分からでた意見をそのまま出すのに、抵抗がある」

このような気持ちはよくわかる。
ふりかえって批判するのは楽しくはないし簡単でもない。それにほんの少しであっても、自尊心が脅かされると感じることもあるだろう。
それでも、他者にむける自分の考えは批判してみたほうがいいと伝えたい。
非難ではなく、批判である。


・ ・ ・

たとえ些細なことでも、自分からであっても
批判がうかぶと、死を連想させられるいう人もいるだろう。
真剣すぎると感じるかもしれないが、それこそ私をふくむ他者とは程度の差にすぎない。
決して否定しないし、守りたい気持ちである。

 

個人的な考えなので、鵜呑みにせず読んでいただきたい。

数えればきりが無いが、死そのものを恐怖するのではなく、その〝恐怖する感情〟の多くは各人がもつ貪慾、道徳に反するような迷信、妄執、払いがたい愛着の念という、その性質や境遇をもとにするのだろう。
それゆえに、
ひとたびその各人の事情が変革されて解脱するか、

あるいはそれらの事情を圧倒するような他の事情におおわれたとき、死は敬うことなく扱われる…。
あるいは恋のために・名のために・自由のために・度しがたい苦痛から逃れるためにそこへ猛進するものすらいるのではないか…。


気持ちの折れる過去があった。
不意におぼえたその感情があった。
それゆえに、自分を嫌悪しても
あなたの感情・気持ちの一つが、これまでのあなた自身の一生を覆い隠すことはない。
決して、だれも一時の感情と、長い一生を取り違えることはないように。

おもうことは、よりよく生きたいと願う源泉である。

 

まだ染めない生地の白さ

今週のお題「マイルーティン」

 

前回の記事で書いた
運命という単語をひろったコメントを受けて、今回はお題とあわせて私の伝えるところを整理しようとおもう。

 

「自分は生まれつきこんなふうにできているんだ。いわば宿命、、運命であるから、自分をコントロールしようとしたところで無駄なんだ。」

こう言いたくなった場面は、誰しも子供時代までさかのぼれば頭をよぎるだろう。
時間をかさね大人になるにつれて、律するところでもある。

ところが、トラブルが起こったとき
状況を観察したのち解決策を講じるという選択のほかに、まず他者のせいにするべく冒頭にあるようなセリフを言う人もいる。

後者の場合、冒頭のセリフは本人にとってとても都合のいい理由になる。
なにせ、一切の努力を自分に課さずにすむ。すべてを成り行きにまかせ、自分の本能に従って生きることをよしとする理由になる。

 

まず、このセリフを落ち着いて読んでみる。

 

宿命とは、変更のしようがなく「生まれつき宿っていること」を宿命という。

(例:一人の人間を指して、「人間として生まれたこと」を宿命という。)

運命とは、自分が経験し、自分から行動をおこすことで自らの命を運ぶことをいう。

(例:どのような人と出会い、経験して、いかに学び、どのような人間関係や環境で生涯を送るのかは、運命という。)

 

この宿命と運命をごちゃ混ぜにして、分からないまま使う場面は多い。
例のように、運命とは自分の意志やアクションによって変えることができることをいう。


私が不思議だなとおもうのは
「自分では変えようがなく」=宿命論者となり

「コントロールしたところで無駄」=運命論者へと

急屈折しながら否定する考え方だ。

どちらに転んでも否定しかしないので、結局は実入りのない事態となる未来をすすんで選択している。

その信念のもとに動いた事実(行動)によって生じるリスクが無いままに、望むメリットが現れると本気でおもっている。
翻せば、「グラスに入ったお酒よ、頼むからこの口に入ってくれるな」「お金よ、知らぬ間(無意識のうち)に手元から出ていっては困るよ」と、本気でおもっていることになる。


愚かなことをいうなと反論なさるだろう。
然り。その通りである。

あなたが愚かであると非難したように、あなたも本心では自分を変えられないだなんて、信じていない。

すなわち、あなたも私も、どうにも怠惰であるということだ。
律するということは、ここに依る姿勢を見張ることでもある。

 


一生のうち、ほんの少しでも自分の命を真剣に考えることは重要だ。
一瞥もくれないとなれば、ここに述べた
宿る命と運ぶ命という分別すらあいまいになってしまう。

運というのも、ある幾つかの際立った出来事における特定の解釈を言い換えているのだ。
しかし、多くの人がまるで流動的な、運という目に見えない何かがあると自分の経験から思い込んでいる。
また、そこから生まれた占いもある。
あらゆることは残るべくして存在しているように
占いも、自分の命をどう生きるかという目的のための手段に過ぎず、各々が興じる自らへの一押しなのだ。

自分の思ったとおりに道が開かないからと言って、この手段で他者の頭の中まで変えてよいという理由にはならない。
「どいてくれ、この俺が、私が通るんだから」などと現実では言わないだろう。

 

 

そうとなれば、あなたは自分の未来について‘’漠然とした不安‘’ということよりも‘’いかに生きるか‘’ということを…

人生に対して、芽吹くかのような強い関心を抱くようになる。
あなたの運ぶ未来は、いつであろうと何者にもよらず、あなたにかかっている。

 

女王エリザベス2世の崩御

だれが、いかなる理論がこの悲しい別れを合理的に説明できるか。
「運命だった」という言葉は「実はなにも分からない」という言葉と同義だ。


基本来、惨めなるは死別よりも生別であると古人はいった。死者には死別の恐れも悲しみもない。
ゆえに死はもはや問題ではなく、その終わりに至るまでに如何なる生をその身に授け、かつ、送るかに在る。

 

いまはただ、尊き人物の生涯を称える。

秋や冬をこえて、胸張る幸福を分かち合えるよう、この愛を守るばかりだ。

 

 

 

同じテキストが繰り返し並ぶことによる視覚効果

 

音をともなった声による抑揚と意味付け、節の長短の変化

このような生産的な現象がどうもみられない。字体が解体され始めると、不快感や焦りが生じるのだろう。テキストから目を離さない限りそれは続く。

 

 

繰り返しに接近して

 

意図的に利用したならば、手段としてまとまった全体性を解体させるという目的が透けて気づける。

目は単調な繰り返しを避け、耳は繰り返しを養分に楽しむ。

 

人は何に価値を見出しているのか。

絵画も、その道具や出来事をとおして作者の意図が表現されている。絵画にかぎらずとも、こどもの頃から遊びを体験してこの尽きぬ面白さを知っているので色々と探求するわけだ。

ここでいう表現は、本人が意識しようがしまいが隠され続けることはない。それこそが、人が体を向けて価値を見出すものなのだから。

 

以上の内容を経験的に駆使する人は、さほど個人的にうんざりするようなことがない。

というのも、失敗の発見そのものが生きる素材になるからだ。

一日のいろいろな出来事を、心配なことや不愉快なこと、邪魔なことと見做していた。だが今は、一生という美しい織物を織りあげるための豊かな素材だと見做し、活かしている。

この目的のために頭上には可能性がおさまっている。知識人といわれる人々の意見が異なるのも、この多彩な人間的価値の現れであるからだ。

 

 

 

hinoen.hatenablog.com

 

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一連の記録(R4.4.17過去記事コメント欄につづく)


あのですね、ここは私のブログです。
趣旨のズレが否めませんが、これ以上は不毛なので言及しません。
識。そうですか。その深層探求は豊かな情緒をも与えますね。
しかし、さきに述べた疑問と保留について、我影のはたらきは求めていません。
一方的に投げかけられた言動に対して、なぜ?という問いに答えることもなく、受取方はあなた次第だよと話を進められても問題なのです。
シンプルに、その物言いと言動の目的とするところが焦点なのです。

これまでそのような姿勢で他の方々と交流されてきたのかもしれませんが、私個人からすると本当に怖いですし、迷惑です。思っているだけではそちらも困るでしょうから書いています。
繰り返しますが、取り立てて言うことはなさそうなのでこの会話は閉じます。
なお、事実は単に個人の感想ではありません。
記載された様態を沈黙していても私の精神衛生上よろしくないので、ここに記録します。

 

警察介入していただき、やるなら とことん やりなさい。 腹くくりなよ、~(私以外の方を指す内容の為伏せます)~。

 

騙す 人わ変われない  これですら 識のはたらきの 一部と 伝えているでょう? 何を 語っているのですか? 心のはたらき わ 識の一部です はたらき と 摩擦を おこさない

 

騙す←→騙せない 変わる←→変われない 言葉にした 意志を確認した時に この心わ 識になるんです そのような はたらき に 摩擦わいらないんです。

 

本記事は以下記事コメント欄につづく記録です

hinoen.hatenablog.com

参考

はてなブログ利用規約など
はてなブログでは「情報削除のガイドライン」と「はてな情報削除・発信者情報開示関連事例」というページが設けられています。

はてな情報削除ガイドライン - Hatena Policies

情報削除・発信者情報開示関連事例 カテゴリーの記事一覧 - Hatena Policies

なにかブログで気になることがあるなという方は、一度目を通してみるとよいかと思います。

 

追記

はじめまして。
質問内容が重複しているのでまとめて下記します。
その様子だと、現状公開されてきた内容整理の突合が目的でしょうか。


紹介にある読み専って、読むだけの人ということ?

佐野さんのブログのことですか。私も一読者ですがもう長らく更新されませんね。

ここで恫喝行為をされている人が、そのコメント欄で誘導している人物について、とのことですが、過去佐野さんのブログをリアルタイムでご覧になったとおり
下記記事にあるスピリチュアル系グループの一人です。
彼の公開ブログでも、過去の他ユーザーブログでも繋がりを記載されていますね。

 

hinoen.hatenablog.com

 

どうも長いこと読まれていたようですね。

お話にある、過去世は卑弥呼ですと発信された女性は

公開ブログをはてなで立ち上げていますが、ご存知のとおり非公開の設定でいまも存続しています。(内容にあるように、彼女も過去記事の指すスピ系グループで活動実績がある)

本記事の方や上記ブログ関係者が活動するタイミングで、なぜか彼女の非公開ブログも
タイムライン上で更新移動(直近R4.8.8前夜)しているので、合図や個人的連絡のやり取りもあるのでしょう。


うち一人は公開ブログにて批判姿勢とPR活動をとっていますが、これらの動きがあるたびに経過を追いかけ過去事実を美談化、捏造した内容を言い広めています。
その上自分に責任はないと主張するのが常套です。

なぜあのような人格否定を平気でするのか?という疑問は同感です。
状況や解釈について疑問を感じ、こちらが質問すると過去記事(本記事の人も含む)にある言動を繰り返してきます。
公開記事や言動により人の感情に強く訴えることで、特に違法な行為を決意(*理由も伝えずこの情報を掲載しろと指示する)させるか、すでに生じている不満(社会や人間関係での苦悩)を強めるようにあおりたてます。

(*他人のブログを自分たちの活動のために使えと強要する等)
相談や救済活動といって、その人の不幸を聞き出し霊的な原因と結びつけるため、話の辻褄も破綻していきます。
相手が黙ってしまい不幸が聞き出せないとなれば、グループで働きかけ、因縁づけてきては不安扇動を行っています。


傾向として繰り返しこのような動きがみられます。
以上ですが、そちらもリアルタイムでご覧になってきたことばかりでしょう。

 

0902返答

お久しぶりです。

今はそちらも閉じてますし、構いません。ご本人がせっかく離れても、粘着されてはね。

そうですね、わっとさんの記事やご紹介されているブログの方々も、楽しく拝読してますよ。まぁ、この追記で問題として挙げている人がここに並んではてなスターをつけるとは思いませんでしたが。

リンクしていたツイッター等でも辿っているのではないでしょうか。