まだ染めない生地の白さ
今週のお題「マイルーティン」
前回の記事で書いた
運命という単語をひろったコメントを受けて、今回はお題とあわせて私の伝えるところを整理しようとおもう。
「自分は生まれつきこんなふうにできているんだ。いわば宿命、、運命であるから、自分をコントロールしようとしたところで無駄なんだ。」
こう言いたくなった場面は、誰しも子供時代までさかのぼれば頭をよぎるだろう。
時間をかさね大人になるにつれて、律するところでもある。
ところが、トラブルが起こったとき
状況を観察したのち解決策を講じるという選択のほかに、まず他者のせいにするべく冒頭にあるようなセリフを言う人もいる。
後者の場合、冒頭のセリフは本人にとってとても都合のいい理由になる。
なにせ、一切の努力を自分に課さずにすむ。すべてを成り行きにまかせ、自分の本能に従って生きることをよしとする理由になる。
まず、このセリフを落ち着いて読んでみる。
宿命とは、変更のしようがなく「生まれつき宿っていること」を宿命という。
(例:一人の人間を指して、「人間として生まれたこと」を宿命という。)
運命とは、自分が経験し、自分から行動をおこすことで自らの命を運ぶことをいう。
(例:どのような人と出会い、経験して、いかに学び、どのような人間関係や環境で生涯を送るのかは、運命という。)
この宿命と運命をごちゃ混ぜにして、分からないまま使う場面は多い。
例のように、運命とは自分の意志やアクションによって変えることができることをいう。
私が不思議だなとおもうのは
「自分では変えようがなく」=宿命論者となり
「コントロールしたところで無駄」=運命論者へと
急屈折しながら否定する考え方だ。
どちらに転んでも否定しかしないので、結局は実入りのない事態となる未来をすすんで選択している。
その信念のもとに動いた事実(行動)によって生じるリスクが無いままに、望むメリットが現れると本気でおもっている。
翻せば、「グラスに入ったお酒よ、頼むからこの口に入ってくれるな」「お金よ、知らぬ間(無意識のうち)に手元から出ていっては困るよ」と、本気でおもっていることになる。
愚かなことをいうなと反論なさるだろう。
然り。その通りである。
あなたが愚かであると非難したように、あなたも本心では自分を変えられないだなんて、信じていない。
すなわち、あなたも私も、どうにも怠惰であるということだ。
律するということは、ここに依る姿勢を見張ることでもある。
一生のうち、ほんの少しでも自分の命を真剣に考えることは重要だ。
一瞥もくれないとなれば、ここに述べた
宿る命と運ぶ命という分別すらあいまいになってしまう。
運というのも、ある幾つかの際立った出来事における特定の解釈を言い換えているのだ。
しかし、多くの人がまるで流動的な、運という目に見えない何かがあると自分の経験から思い込んでいる。
また、そこから生まれた占いもある。
あらゆることは残るべくして存在しているように
占いも、自分の命をどう生きるかという目的のための手段に過ぎず、各々が興じる自らへの一押しなのだ。
自分の思ったとおりに道が開かないからと言って、この手段で他者の頭の中まで変えてよいという理由にはならない。
「どいてくれ、この俺が、私が通るんだから」などと現実では言わないだろう。
そうとなれば、あなたは自分の未来について‘’漠然とした不安‘’ということよりも‘’いかに生きるか‘’ということを…
人生に対して、芽吹くかのような強い関心を抱くようになる。
あなたの運ぶ未来は、いつであろうと何者にもよらず、あなたにかかっている。