ぼんやりしているようで創造している。いつでも私たちは生まれ変わっている。
わたしたちはぼんやり考えることもあると
漠然と思っているけれど、それは考えていない。
自分ではぼんやりと考えているつもりだが、実際は想像の羽をはやして
いくつもの絵やイメージを雑に並べているだけである。
人間が本当の意味で「考える」のは言葉を使うときだけだ。
では、どうすればいいのか。
逆引きのようだが方法は簡単で、言葉を使えばいい。
具体的には、紙に文字を書いて考える。
すると不思議なことが起きる。
ついさっきまでわからないと思っていたことがわかるようになる。
今まではなかなか結論など出る気配すらなかったものが、
自然と、自分の書き起こした紙から出てくる。
❝それがあなたの考えの現時点での果実❞だ。
(思うに‥で続く言葉も意見や感想となれば、その時点で考えられた発信になる。)
だからこそ、
一度口にしたことを変えたり訂正することを恥だと思うのは
探求といえない。
当然ながら、変えるに至った経緯を無かったことにしては元も子もない。
そういう言葉の基本的理解がなければ
人間は見ている世界、この社会はおろか自分自身さえ
正しく知ることができなくなる。
「そんな面倒なことをしていたら、息がつまるよ」となれば
❝その程度であるという事実を受けいれる❞ことはできる。
以心伝心、想いだけで通じる、あるがまま、世間のいう恩に報いて、天に恥じないように・・・
こういったイメージにかこつけて
どれほど自分で考えることを放棄してきたか。
その一方で
考えることもされなかった決めつけで、どれほどの可能性を摘んできたか。
生きているだけで、現実に等しく得る年齢
今得ているさまざまな権利、立場
性別 老若 物質、金銭、評価の多寡・・・
これを権力として最大限行使するとき
驕ったものは腐敗するとされている
その真実と同じく
弱さも腐敗するというということを、携えていたい。