名前を呼んで、刻んで。
私はなにかを考えてみたいと思い立ったとき、しばらく遅らせて取り掛かってみたり、
あらかじめ頭でペタペタ貼った付箋をつかみ、カテゴライズして深めてみる。
そのときどき興味がわかないもの以外はそうしてたゆまず考えていたい。
気の向いたとき、気のすむまで。
いったい誰がこの不思議を説明してくれるのだ。
ただこの世界には奇跡的な事実が人の数ほどあり、あとから振り返ったとき
なにもかもが絶妙にからみ合いながら全体を形成していると気づく。
望もうが拒もうが、あなたの欲するものはなんらかの形でその手に入り
注目を引こうが逸らそうが、雑な扱いをするものは消えていく。
あとから振り返ったときの話なのだから、当然苦しい期間にいるあいだは苦しい。
すると人は、目にうつる偶然に運命めいた愛を、またある偶然には揺るがない悪を仕立てようとする。
この空をいっしょに見られたらどんなに幸せだろうね。
こういった発信も、全体の存在が消えうせ、まるで自分だけに向けた言葉だと思い込んでしまう人もいる。
まさかと思われるかもしれないが、多数の人がそうであるから
そういった多数の支持を得ようとして、選挙や人気投票(あるいは評価の有無)
といった結果と報酬がわかりやすいイメージ戦略に、候補者は重きを置いている。
そのときばかりは
自分の感情はまるで確固としてブレないものかのように思っているかもしれないが
それは空を流れる雲のようにたやすく変形していくものなのだ。
雨が続いて憂鬱になったり、なんでもない日の良好な体調であったり、手持ちの金銭の多寡であったり。
さまざまな理由によって、自分ですら数えていないだろう要因によって
あなたの好き嫌いと感情はたやすく変貌する。
そんな不安定な材料で下した判断は博打と変わらない。
だから気持ちが揺れてまともに考えられないときは、文字通り頭を冷やしてから考えないといけない。
取るに足らないような小さな事柄ですら、私もあなたも、同じことが起こる。
揺れる水が澄み切った鏡のようになった状態から考えたほうが、よりあなたの意思に近づく。
私はスピリチュアルの世界を探求するとき、目にうつる偶然を大切にしている。
先に述べたような残酷な危うさもありながら、いまだ説明され尽くされていない不思議に、私を一として含めて全体が形成されているからだ。
それらをふまえて、冒頭のように生きてみたくなる。
・何をしたら良いのか見当もつかない、判断のしようがないときは即断しないで
何もせずに待ってみる。
・あるいは、たゆまず考えてみる。
肝心なのは、いたずらに心配せずちゃんと考えることだ。
無駄だということはない。考えることによって新しい偶然を呼ぶことだってできるのだから。
なんだか矛盾している、と感じるだろうか。
しかし、ある人がいま創造的な活動をしている_と認識するのはかなり難しい。
私たちは、眠っているあいだも脳ではクリエイティブな活動が起こっているのだ。
その場から逃げさえしなければ、脳は意識しなくても勝手に活動してくれている。
肥沃な過去の果てに今を縦覧する私たちの経験は、時空間をこえて古今東西を飛びまわる。
拡大・縮小をくりかえし、やがて、そのままで在りながら相似の海に溶け入っていく。
そしてまた、おはようと言って朝をむかえる。
土に、海に、空に、風に、火にむかって
この星に生まれて賜った名前を、呼びたくなるのだ。
たとえ行方が分からなくなってしまった、記憶のなかで生きる
その人の名前も、等しく。
それほどまでに、私は、あなたは、命は創造的な存在なのだ。