見るとすれば、その人の心が何に触れているのか(何に価値を置くのか)
人はその時々に関心が向くものしか見ていない。
向けようものなら気づけたような関心が多くあったとしても、自分の興味関心が向いた方向にしか意識を集中できない。
これは人によって異なるという話ではなく、生理として人の意識は方向性をもって表出するからだ。
この生理を本当に理解したといえるのは、ある種の自覚である。
「自分はある特定の方向でしか物事を見ていない」
「自分の見解だけが、すべての物事に通用するということはない」
やがてその自覚をもった人間の表現は、最低限の優しさを具えて現れる。
多くの側面から得られた知は内容の細部把握を助け、すでに提示されたデータや事実への理解となる。その理解はやがて、機械ではない現実を生きる人間に適した考え方を見出す。
この自覚がないと、自分の興味関心という限られた範囲で知った情報しか知らないことになる。それを全体の総意なのだと判断すると、すぐ誤りにおちいる。
貧しさを悪と呼び、生まれながらの上下があるとみなし、死は絶対に悲しいだけであり、如何様なものであっても信心すれば宗教になるのだと考える。
このような根拠のない考えが真実であると思いこみ続けるのであれば、たとえ自分から発信していても、何一つ自分から見出せるものはなくなるだろう。
遭遇するすべてを世間の価値観というバイアスをかけて見ているからであり、事実として物事をありのままに見なくなる。
バイアス(bias)
意義:ある問題や状況を客観的に見ることを妨げる誤った見方
類語:先入観、偏執、傾き、片より、思い込み、偏った考え、独断と偏見、色メガネ
引用:
https://thesaurus.weblio.jp/content/%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%82%B9
傲慢はたやすく他者の自由を忘れるし、卑屈はたやすく自己の自由を忘れる。