自由は自律のすえにある。一日に目が覚めて起きては、そのうち寝ているように。

興味深く、じっくり読ませていただきました。

電脳藻屑 (id:nou_yunyun)さんのブログ「四方山雑記」からです。

突然の言及、失礼いたします。

 

nou-yunyun.hatenablog.com

 

nou-yunyun.hatenablog.com


前編に引きつづき紹介されている人物の提唱する精神は、とても宗教と思えませんでした。

言動や主張に一貫性がなく、その時々の当人の〝ご都合〟を十把一絡げに「信仰」と呼んでしまえば、言葉を絶したところにある情感も神話も過来し方の本領と権威を失わざるをえません。
もはやその主張は、数あるひとつの遺習として形骸化されるか、自己擁護のために悪用されるかです。

 

信仰や礼節が必要とされてきたのは、過去幾多の変遷を経てもつづく現実に対して《自分以外の共同体との生活秩序を、円滑に維持するための知恵》だからです。
各時代背景にある社会や支配関係、生活様式と暮らしが結びついている以上、信仰が生じるのはどこの国にもあることです。

 

ja.wikipedia.org

(出典:Wikipedia


環境を要因とする複雑な生活様式や多種多様な人口構成のもとでは、一定のルールや約束がなければ人々は不便で仕方なく、生きてゆけません。

これがのちに礼法として完成されるものですが、それを成立させた文化や精神(慣習などの風土風習や、農耕の生産活動を起源とする年中行事等)は地理的にその土地固有のものです。

 

宗教やスピリチュアルは、人間の精神や心(人間性)について目を向けることのできる分野です。

元来日本人にとって信仰とは、

自分のもつ力や能力に限界を感じたとき、絶対的なものにすがりつき安心したい態度のあらわれ(行い)であり、生活に携わるうえで結果の出来不出来に 何ものかの力を 認識したときにあらわれる意識です。


例えば、自己の思い通りにいかなかったのは 何ものかの力が働いたため という認識が、自分以外の共同体(自意識の外、私以外の存在)に気づかなければならない理をあらわします。

 

ここでいう精神や心は、長きにわたる生活史の産物です。
その土地に制約されて生きる人々の、個人の自覚を越えて培われた生への心構えのようなものであり
「自分の信じる宗教だけが信仰であり、他の信仰は紛い物である」
「どのような精神や心が優れているか、劣っているか」
などという話ではありません。

今日の市場的性格からいえば、諸々の繁雑さを簡素化することに価値があると思われがちです。
しかし、それによって人間の意志や心の機微といった意味合いが損なわれるということにも、思いいたらなければなりません。


人間の精神(人間性)について目を向けるとき、科学的進歩だけで文化のすべてを律してしまうのは大きな間違いです。
「間違いなど無い。異端や過ちは消えて全体を覆えるほど進歩している」というのならば……ときに思い通りの結果を得られなかったために癇癪を起こす人間の中では、文明は一時的に数世紀前へ逆戻りしてしまうのはなぜか。

虚心坦懐になって振り返れば、どなたでもそれを認めることでしょう。
私の言わんとしていることに思い当たることがあるはずです。

 

 

私達には神話時代から今日まで、歴史という民のいっさいをつつみこむ時間が横たわっています。


礼節やその根本にある道徳は、基本原則として人びと皆がそれを承認すること、また誰ひとりとしてそのために不利益を受けないこと、異端として脱落させない考え方にあります。

来し方が人びとの共存を願って、または必要に迫られて生じたものである以上
自然とその形に築かれてきた必然性を知り、今も行く末にむけて考え続けなければならないということを強く感じます。

 

…誰かに管理されないと、物事の道理や美醜善悪の判断がつかない大人が多いとは思いたくないです。

宗教やスピリチュアルを提唱する人
立場を違えて批評する人
利用する人

残念ながら一部には、理想とする独善的願望から、自分の主張を唯一絶対と見なして正当化(ときには暴力的に)する人もいます。

 

 



ただ古くからのものは無条件に良いもの、と言っているのではありません。

 

暮らしや自然環境に求める人間の合理が、必然的にルールをうみだして作法になるなど、古くから続いているものにはこうした亡びてはならない(早晩困る)理由があります。

長い歴史のなかで創造してきた知恵をつなぐことは…いつの日か自由奔放な生命をもった子どもが自らを律してひとり立ちするために、また、多種多様な世界がもつ財産を継承するためにも必要なことです。
今と過去を照合する相互関係のなかで、私達は自覚の末に新たな選択をしたり、廣く大切に守り続けることで生活をより豊かにするだろうと言うことです。

 

 

 

〈お寄せくださったコメントについて〉

一連の感想としては、記事冒頭のとおりです。

前編に引きつづき紹介されている人物の提唱する精神は、とても宗教と思えませんでした。

言動や主張に一貫性がなく、その時々の当人の〝ご都合〟を十把一絡げに「信仰」と呼んでしまえば、言葉を絶したところにある情感も神話も過来し方の本領と権威を失わざるをえません。
もはやその主張は、数あるひとつの遺習として形骸化されるか、自己擁護のために悪用されるかです。

 

下記情報は、当時より参考にしたうちのひとつです。

受動的攻撃性の人と付き合う秘訣 | ハフポスト LIFE

(出典:ハフポスト)

 

自分の気持ちを言葉にできなかったり、言葉が理解できないこともあります。

されども、故意に真実(自分)を見落とそうとする人は誰もいません。

 

 

hinoen.hatenablog.com

「自分は生まれつきこんなふうにできているんだ。いわば宿命、、運命であるから、自分をコントロールしようとしたところで無駄なんだ。」

こう言いたくなった場面は、誰しも子供時代までさかのぼれば頭をよぎるだろう。
時間をかさね大人になるにつれて、律するところでもある。

 

hinoen.hatenablog.com

欲しいがままに他を除いて築いた自己はいずれぶつかる。
未熟さが現実にぶつかる。もののあわれに口ごもりだして、癇癪に焦がれていく。

秘密としたもの、それは自らの決心そのものだ。
身勝手に立てた決心が先立ちながら、分かってくれないから、理解してくれないからと言って他者を責めてもよいという理由にはならない。
このような自分は理解されまいと、愛されまいと決心したのは自己そのものだ。