交流の輪

以下お返事。

 

 

お久しぶりです。

一応、コメント欄は承認制ですがチェックしています。そこから話題がうまれていたのですか、どおりで。

あずかり知らないところで、勝手に広められると困りますね。度が過ぎれば機関に通報しますし、私も状況確認のため申請することがあります。

おそらく、彼らも好きで続けているのでは?

好きなことに熱中するあまりに、重要な問題を見過ごすこともあります。

自分や自分の環境を改善する目的で行っていることが、実のところ只自分が好きなことを勝手にやっているだけということが往々にしてあるのです。

 

東日本大震災などの震災後も、ある種の権威が他者をたやすく侵害する事象が露悪的に広がりました(現在も地続きです)。

非常事態であればあるほど、ふかく考えず我慢を強いる集団の姿勢は弱者を追いつめます。

一方は善意として主張するために、安易にうけとる観衆や傍観者はそちらに追従しやすい面があります。なお集団として声が大きければ優位になる。マスメディアの作用等も熟慮する面です。

一方的な主張に多数が加わると「やってやったのに」という思考を強制する暴力となって、相手側は摩耗のすえ押し通されやすいのです。

また、判決によっては「被害を受けた当人がハラスメントだというのだから、その限りで謝罪します」という言い方もあります。

自らの行為を否認していないが、被害者に判断を委ねている。ここまでくると丁寧な加害者といった印象です。

 

日常的にみられる態度としてはこのような用語もあります。

『Microaggression(マイクロアグレッション)』

なお、用語の批判派として「悪意がないのに悪役に仕立て上げられる」とする声もあります。

 

肝心なことは、無意味に不安を煽ったり、腹の探り合いをすすめるような集団にはならず、素直に対応する態度でいることです。

もちろんそうした対応にいたるには、発信者に真意を尋ねたり建設的に対話しようとする冷静さがお互いに求められます。

 

    

そのような態度を阻害してきたものは何だったのでしょうか。

絶対に弱みを見せたくないという強がり、恥をかきたくない気持ち、相手より上に立ちたいという傲慢、損得勘定による保身、比べてよく見られたいとおもう虚飾。

 

誰もが自分の心を虚心にみつめると、他人に対しては自分に向けるものとは全く違う態度をとっているということは、認めざるをえません。

あれが気にくわない、そこが癪にさわるとかですね。

他人どうしなのだから、受けとる感情がまるっきり同じではないのです。

自分を説くように(謙虚であるように)他人を説くならば、内省が欠かせないのです。

_なぜ彼らがそのように行動するのか、一体どんな問題を抱えているのか、自らの立場をどのように弁解するのか。

_どうしたら、彼らとの摩擦を避けることができるのか。

これらの理解や考えに努める態度は、不仁や不義の人を叩くことではありません。

 

物事をわかりにくくするために自らの自尊心を障碍にしては、何もみえません。

それは正義とは程遠いものです。

 

    

 

 

落ち着きましたか?

それでは、また今度お話ししましょう。

 

 

自由は自律のすえにある。一日に目が覚めて起きては、そのうち寝ているように。

興味深く、じっくり読ませていただきました。

電脳藻屑 (id:nou_yunyun)さんのブログ「四方山雑記」からです。

突然の言及、失礼いたします。

 

nou-yunyun.hatenablog.com

 

nou-yunyun.hatenablog.com


前編に引きつづき紹介されている人物の提唱する精神は、とても宗教と思えませんでした。

言動や主張に一貫性がなく、その時々の当人の〝ご都合〟を十把一絡げに「信仰」と呼んでしまえば、言葉を絶したところにある情感も神話も過来し方の本領と権威を失わざるをえません。
もはやその主張は、数あるひとつの遺習として形骸化されるか、自己擁護のために悪用されるかです。

 

信仰や礼節が必要とされてきたのは、過去幾多の変遷を経てもつづく現実に対して《自分以外の共同体との生活秩序を、円滑に維持するための知恵》だからです。
各時代背景にある社会や支配関係、生活様式と暮らしが結びついている以上、信仰が生じるのはどこの国にもあることです。

 

ja.wikipedia.org

(出典:Wikipedia


環境を要因とする複雑な生活様式や多種多様な人口構成のもとでは、一定のルールや約束がなければ人々は不便で仕方なく、生きてゆけません。

これがのちに礼法として完成されるものですが、それを成立させた文化や精神(慣習などの風土風習や、農耕の生産活動を起源とする年中行事等)は地理的にその土地固有のものです。

 

宗教やスピリチュアルは、人間の精神や心(人間性)について目を向けることのできる分野です。

元来日本人にとって信仰とは、

自分のもつ力や能力に限界を感じたとき、絶対的なものにすがりつき安心したい態度のあらわれ(行い)であり、生活に携わるうえで結果の出来不出来に 何ものかの力を 認識したときにあらわれる意識です。


例えば、自己の思い通りにいかなかったのは 何ものかの力が働いたため という認識が、自分以外の共同体(自意識の外、私以外の存在)に気づかなければならない理をあらわします。

 

ここでいう精神や心は、長きにわたる生活史の産物です。
その土地に制約されて生きる人々の、個人の自覚を越えて培われた生への心構えのようなものであり
「自分の信じる宗教だけが信仰であり、他の信仰は紛い物である」
「どのような精神や心が優れているか、劣っているか」
などという話ではありません。

今日の市場的性格からいえば、諸々の繁雑さを簡素化することに価値があると思われがちです。
しかし、それによって人間の意志や心の機微といった意味合いが損なわれるということにも、思いいたらなければなりません。


人間の精神(人間性)について目を向けるとき、科学的進歩だけで文化のすべてを律してしまうのは大きな間違いです。
「間違いなど無い。異端や過ちは消えて全体を覆えるほど進歩している」というのならば……ときに思い通りの結果を得られなかったために癇癪を起こす人間の中では、文明は一時的に数世紀前へ逆戻りしてしまうのはなぜか。

虚心坦懐になって振り返れば、どなたでもそれを認めることでしょう。
私の言わんとしていることに思い当たることがあるはずです。

 

 

私達には神話時代から今日まで、歴史という民のいっさいをつつみこむ時間が横たわっています。


礼節やその根本にある道徳は、基本原則として人びと皆がそれを承認すること、また誰ひとりとしてそのために不利益を受けないこと、異端として脱落させない考え方にあります。

来し方が人びとの共存を願って、または必要に迫られて生じたものである以上
自然とその形に築かれてきた必然性を知り、今も行く末にむけて考え続けなければならないということを強く感じます。

 

…誰かに管理されないと、物事の道理や美醜善悪の判断がつかない大人が多いとは思いたくないです。

宗教やスピリチュアルを提唱する人
立場を違えて批評する人
利用する人

残念ながら一部には、理想とする独善的願望から、自分の主張を唯一絶対と見なして正当化(ときには暴力的に)する人もいます。

 

 



ただ古くからのものは無条件に良いもの、と言っているのではありません。

 

暮らしや自然環境に求める人間の合理が、必然的にルールをうみだして作法になるなど、古くから続いているものにはこうした亡びてはならない(早晩困る)理由があります。

長い歴史のなかで創造してきた知恵をつなぐことは…いつの日か自由奔放な生命をもった子どもが自らを律してひとり立ちするために、また、多種多様な世界がもつ財産を継承するためにも必要なことです。
今と過去を照合する相互関係のなかで、私達は自覚の末に新たな選択をしたり、廣く大切に守り続けることで生活をより豊かにするだろうと言うことです。

 

 

 

〈お寄せくださったコメントについて〉

一連の感想としては、記事冒頭のとおりです。

前編に引きつづき紹介されている人物の提唱する精神は、とても宗教と思えませんでした。

言動や主張に一貫性がなく、その時々の当人の〝ご都合〟を十把一絡げに「信仰」と呼んでしまえば、言葉を絶したところにある情感も神話も過来し方の本領と権威を失わざるをえません。
もはやその主張は、数あるひとつの遺習として形骸化されるか、自己擁護のために悪用されるかです。

 

下記情報は、当時より参考にしたうちのひとつです。

受動的攻撃性の人と付き合う秘訣 | ハフポスト LIFE

(出典:ハフポスト)

 

自分の気持ちを言葉にできなかったり、言葉が理解できないこともあります。

されども、故意に真実(自分)を見落とそうとする人は誰もいません。

 

 

hinoen.hatenablog.com

「自分は生まれつきこんなふうにできているんだ。いわば宿命、、運命であるから、自分をコントロールしようとしたところで無駄なんだ。」

こう言いたくなった場面は、誰しも子供時代までさかのぼれば頭をよぎるだろう。
時間をかさね大人になるにつれて、律するところでもある。

 

hinoen.hatenablog.com

欲しいがままに他を除いて築いた自己はいずれぶつかる。
未熟さが現実にぶつかる。もののあわれに口ごもりだして、癇癪に焦がれていく。

秘密としたもの、それは自らの決心そのものだ。
身勝手に立てた決心が先立ちながら、分かってくれないから、理解してくれないからと言って他者を責めてもよいという理由にはならない。
このような自分は理解されまいと、愛されまいと決心したのは自己そのものだ。

 

 

2023/04/15

岸田首相も聴衆の方々も無事でよかった。

事件の検証を責任追及や責任回避の場にすべきではありません。
犯行の動機や背景について、一方的なラベル貼りで無用な疑念を持たれることのないよう、正確な情報発信を待ちたい。

軽率な情報発信、sns投稿は注視するところです。

 

自然は専ら

専ら春景色

 

 

赤く枝珊瑚のようです

 

 

笛は吹き揺れた

 

 

 

横並びのままきました

 

 

つつじの花も、みにいきましょう。

 

 

 

専門家(せんもんか)とは? 意味や使い方 - コトバンク

(出典:コトバンク

 

宗教にもそれぞれ専門家がいらっしゃる。

行いと思いからなり、どちらかを軽んじていると

一途にとは通りません。

 

複眼して、いつどのような流れも同じくたどります。 

わざが一定の規則をもつと術になります。

さらに上がると法になります。

それに道徳性が付与されることで道になります。 

現象的なわざを、どうか道にまで昇華したいという願望はつねに諸事万端はたらいています。 

作法もありかたとしては技術そのものですが、さて、宗教も道としてみるに望ましいのはその人柄や人格であるわけです。

「 一人の人間としてどうか 」という目線から入って、求めるところの望ましい相手か。急かずに観察したほうがいいです。 

一部ですが、他者にたいして不当に「 紛いもの扱い 」する人は現実にいます。

 

いろいろの姿をみるなら、ある程度の距離は保つようにしておきます。

 

 

自分という感覚は他人も共通してもつから「自分」という言葉を使います。他人もいることを忘れて自分の都合ばかり優先すると独りよがりになります。

もっともらしいな、と思うのは個人が判断するところです。


他人を責める口上ばかりで、自分は棚上げでよしとするのは、意見でも批判でもありません。それは文句です。

一方的に“そう思ったから”というだけで、自分の言動や立場を棚上げして被害意識を武器にしても、文句にすぎなければ相応の見えない評価がつきます。

 

相手に敬意を払ったふりをして貶める人は、よく相手に傷をつけたがります。

傷をつけないと愛せないような態度は敬意ではありません。

 

まず最初に、不当に扱ったのは誰でしたか。

不当に扱えば、きっと相手は満足すると思って一瞥もくれなかったのは誰でしたか。

 

それが当たり前になったのは、いつからですか。

 

 

 

 

 

しだいに純粋になっていく

こんばんは。
そうですか、見ましたか。

 

hinoen.hatenablog.com

 

そのことですが、
ひょっとしたら、これまで魔法や法律によって人間性が変わるのだと思っているのだろうか。

個人が集団に働きかけるのではなく、集団によって人間性が変わるのだと思っているのだろうか。(安全、を考えたくなる)


男女のあいだに恋愛のようなものがまったく存在しなかったギリシャ時代

絶えず争い、また鎮めるために戦争をするだけであった戦乱の時代

それらの時代から、まったく人間性は不変であるとおっしゃるのだろうか。


よりよく生きていきたいと、つねに変わり続け、積み重ねてきたから今日があります。

 

 

外を見ているとよく感じる。
草がはえるように人間性も変わっている。ただ見たいところを見ているうちに、ある日思いもよらない長さまで伸びた草を見つけて驚く。

子どもは

自然のなかで生きているもの、育っていくものとして次々と学んで、それに合う言葉を自分のものにしていきます。

ニガイも、ほろニガイも、ためしにゆし豆腐の味噌汁のうえにはなって吸ってみた

子どもの私の口にひびく、にがいこと!

まだ実のわかい酸っぱさ、ころんと手のひらにのる甘さ、舌の上に広がる様々に、自然とその土地の人々の口にする言葉や表現を理解していく下ごしらえとなったことは、きっと、叶ったことでしょう。

 

 

 

 

 

 

・・

 

その話の場では

「執着を捨てろ。苦しむ感情を捨てろ」と言われたそうですが、それで苦しむ他人の何が分かったのでしょうか。

捨てるにしても感覚や感情は形がありません。目に見えないものはどこまでも自分事であり、他人に説いてまわらないと気がすまない様子は、本末転倒です。
つきあわざるをえない周囲の人たちにも、同じく自分事があるという現実を忘れてはいけない。

 

・・

 

なりゆきにまかせる、なるようになる、という言葉もあります。
しかし言葉の意味をわかって実用する人は少ない印象です。

自分が何を求めているかよくわかっていて、その上で言います。


言葉の意味がわからないと
いっこうに満足しないまま、これまで努力したのに不満がでてくる。長らくさまよい歩いた上、へとへとに疲れる。

一体自分が何を求めているのか、よくわからずに、何かを求めているということしかわかっていないからです。

〝何を求めているのか〟について、自分の感情が伝える場面は数えきれないほどあります。

 

「この私という物差しで、今において、誰を、はかろうとしている?」

健康的な姿勢で自己に問うことは
「さて、自分は正気であるか?」とチェックする習慣になっていきます。
感情に振り回されて疲れることがないように、自分が何を求めているのか、自分をみつめる習慣です。

 

付き合い

ガスライティング(英: gaslighting)

日常生活やSNSでも観察されることであり、問題となっていることは決してささいなことではない。

 

出典:ライフハッカー

www.lifehacker.jp

 

 

人は各々が自分の物差しをもっていて、それで万事をはかりながら暮らしている。
それでいいのだし、ほかに生活の方法はない。

 

 

 

 

科学、芸術、宗教、学問、

門はちがうがそれぞれの領域をこえたところとは、自己の目標と方向を一致させることに行き着くのだろう。さまざまな人達がそこで人生という調べをなしている。

物差しは人によって異なるのが当然なように、自分の尺度だけではかれないものがあることも感じていかなければならない。

いつのときか他者は必要でないとおもえたのは、自分の尺度だけで世界をはかったから簡単に片がついたのだろう。

 

だれでもはじめのうちは、ひとりの人間に自分の主観から肩書きや位置づけをして、その人間を分かったつもりで安心したがるところがあるが、そのことで何が分かったことになるのだろう。

もしあなたが、私のすべてを理解できるといったらあなたは私になってしまう。

もうすこし別の方向に今のエネルギーを傾ければもっと幸福な結果が得られるかもしれないのに、やみくもに動くのは間尺に合ったこととはいえないだろう。


私にとって未知である他者をまえにして、他者のすべてを理解したつもりにはなれない。
どこまでも仮定である真実とおぼしきものを守る金庫になるために、私は生まれてきたわけでもない。

私や私以外の人たちの目前には、もっと早急に取りかかるべきことが、山ほどある。

 

 

水音の便り

人を不安にするのは、実存する物事ではなく、物事についての意見だ。
人は起きた出来事をどのように考えるかで心を乱される。

 

問題にあたったとき、問題の中から教えを見出すのか。(その教えはたいてい個人的なものであり、なかなか他者に理解されないものでもある)

それとも、ことにあたり伴って生まれた人々の不安につけいるのか。


それらの意見が意図する力の行方に注目する。
まず、その人物や集団が〝何にたいして欲求・忌避するのか〟をよく知る必要があるためだ。


欲求の達成は欲するものを得ること。
忌避の達成は避けるものから出会わないこと。
欲していながらも得られないのは不仕合わせとなり、忌避しながらも出会うのは不幸となる。


となれば
その人物が、貧しさや病、死(避けられない対象)をひどくきらって避けるならば、その人物は不幸ということになる。

この対象が人同士(こんな人たちはきっと危ない、その出自だからこの結果なのだ等)に向かうと忌避意識になる。

 

 

 

 

 

本当のことはなんだろかと探求したところから、学び習う活動のベースとなる哲学という広大無辺な知が誕生した。

 

〝何にたいして欲求・忌避するのか〟

 

心にそなわる力が絶えずこの生を完成に向かわせる。