いつだってだれだって知っている

 

どのような言葉や名称も

つねに物が実在することを示しているわけでもないし、あらゆる物事や観念の全容を表すわけでもない。

皆そんなことは知っているはずである。

 

 

ところが、人ははからずも自分がもつ知識に合わせて物事を歪めて見たりする。

そこには見えていないものまで見えると錯覚してしまう。さらには文字による表現が人の思い込みをエスカレートさせる。

私たちは、初めて虹をみたとき七色と言えなかった。

肉眼では三色しか見えない。七色と答えられるのは機器やプリズムによって知り得た知識であり、見えるものだけから得た知識ではない。

文字による表現でいえば、ユダヤ人。

これだけ書くと、まるでユダヤ人種というのがあると思ってしまう。しかし実際は、ユダヤ教徒がそう呼ばれるだけであって、ユダヤ人種というのが生物学的に存在しているわけではない。

 

世間の価値観、狭いコミュニティ、または意図的に遮断された空間を利用されると、いつのまにか存在しないものを実存するかのように思い込んでしまう。

それは、事実とは歪んだ物事を「そういうものだ」と錯覚しているのである。

事実を見ずに「そういうものだ」とむやみに従えば人は容易く言葉に惑わされる。

 

いくらこのように言っても独善的に「ひょっとしたら」を待ち続ける人もいる。

その信念を可能なものとするために、いったいどれだけの不信(「ひょっとしたら」)を捧げ続けることになるのかを思うと驚かされる。

それは妄信だ、と私たちが知るものはすべて不信から成り立っていることに未だ気づかない。

 

世間の価値観、狭いコミュニティ、意図的に遮断された空間・・・このようにあげたが、どうだろう。

その集団の価値観に従うことは、集団の求める❝結果❞を目指して行動していくことになるが、そこに❝あなたの存在する意味(人間の尊厳の感覚、判断力、道徳・審美感覚)❞まで一緒くたになってはいないか。

なんの不満もなく満足を得ているなら幸いだが、自分の命運までも集団に賭けているようにみえる。

プライドと引き換えにその❝意味❞すら放棄してはいないだろうか。

それとも、すでに自己放棄への情熱を満たしてくれるがゆえに掴んでいるのか。

 

友や恋人、夫婦という形をとりながら、自分にとって不都合な出来事が起こると「人生を返せ、時間を返せ」という人がいる。

まるで相手に自分のすべてを賭けているかのようだ。相手の人生も、自分の人生もその人のものなのに。

 

 

求める結果を、物や金銭に価値を置いてみたらわかりやすいかもしれない。

そこに本当の価値はない。物や金銭は人が利用するものであり、それ自体が価値をもたないから。

誰それからの承認を得るためにこの活動をする、実入りを期待して誰それと親しくする。実際そういう人は多いし、処世術としても紹介されているとおりだ。

最終的な目標は、想定された報酬(評価、承認)なのだから、その道中に起きる出来事も出会いも自分にとっては、目標にいたるプロセスという意味しかない。

本当に意味を持つのは、想定している結果や報酬だけということになる。

 

集団や周囲の期待する「いい子」「イエスマン」を演技するのも結果を想定しての行動だろう。

そしていつか、とめどなく求められる欺瞞に耐え切れなくなり、その人なりに失踪する。

それは反抗ではなく、地獄からの脱出になる。

 

何をするにしても、結果主義で行動すると結局は日常の意味を失い、いつしか生きる意味を失う。生きる意味を失うことは死であると直観するから、ごまかすしかなくなる。これを人によっては趣味やスポーツ、遊び、旅などで不安な心をまぎらわしている。

地獄とは、結果と意味を同じだとする軽率な考え方のことだ。

 

ミステリアスを装う人は多いが、本質がいつまでも隠されることはない。

求めても相手が答えないのであれば、相手も答えを持っていないのだ。

シンプルに、自分でも理解できてないブラックボックスをあなたの前に持ってきて「答え合わせ」をあなたに迫っているに過ぎない。

このブラックボックスを持ってきて、悲劇を演じたり、居丈高になって押し付けるのは自己満足や自慰と変わらない。

私たちは理解がおよばないものに対してのみ、絶対的な信念を持ちたがる。絶対があると思い込む。

理解された教えというのは、同時にその力が奪われることを表す。

 

彼・彼女らの取引する「答え合わせ」の目的は、あなたを拘束するものから解放させることではない。

不満を抱えたあなたにとって何より魅力的であったのは、責任からの解放であったはずだ。

それ自体が答えであったと受け入れるほかない。

 

 

 

これによりあなたはまさしく自由となる。

そして、新たな道のうえに立つ。

 

 

孤独だとおもうのはまだ早い。

私たちは❝痛みを知っている❞。

これを忘れた人間は、他者の怒りや悲しみを感じられないだろう。傲慢はたやすく他者の自由を忘れるし、卑屈はたやすく自己の自由を忘れる。いわゆる病的な共依存というのはここから生まれる。

自己探求を突き詰めると、実際には自己放棄にいたることが奇しくも物語る。

 

私はそう知ったとき、あらゆる知覚に、目にうつる風景に

深く感謝したものだ。

 

 

あなたを真に解放するのは、あなたに何か特別な権威や贈与を施した者でも、無作為に選び続けるカードが示すサインでもなかった。

それらは目の前に広がる可能性のふち(縁)を、寄せては返す出来事にすぎないと。

あなたはいつか、穏やかに肯定するだろう。