春なる並木道

 

 

 

デザイン、デッサン、ムーヴ、フォルム

私たちは作品や景色を見るとき、肉眼で見ているのではなく心眼でみている

 

その域で見ていると思いがけず感動する

拙い一筆、一色彩に・・・

 

何が書いてあるのか読もうとしたり、何が描かれているのか見ようとするうちは

この域に至っていない

 

私もまだ至らないと知るきっかけに何度も出会う

ある音符を読めない人にとっては楽譜は記号の羅列であるが、読める人は楽譜から音楽を聞いているのだ

 

 

 

 

 

 

この世界もそうだ

人の見方によって有意義にも無意味にもなる

つまり、人による違いは自分の知識を増やす限りどんどんあたらしい意味を持っていく

そして当然のことながらあなたに新しい考え方をもたらす

 

 

 

 

 

 

あれが知りたい、この人が知りたい

好奇心に動かされている自分を、選り好みせずに受け入れる

そのまま手足が動きそうで心許ないなら、頭のなかでそんな自分を隣から眺めてみなよ

けっこう笑える

そして、まだあなたは何もしていない

言動に移すかどうかはそれから。

(いざ動いたとき何かチクリと痛むのなら、それは理性があなたに切っ先を向けている証なのでひとまず冷静になることをおすすめする。)

 

 

好奇心が働くのは、自分の虚構を満たすためであったりするから

おかしなことに写るってだけで。

この働きはむなしいことじゃない。

だからこそ、私たちはたとえ雨風であっても

さくらを散らす自然に、この身が間に合いますようにと どこか急かされる。

 

 

本当のむなしさっていうのは、すでに得ている快・楽しみを偽りと見なして、

まだ得ていない快・楽しみのむなしさを知らない移ろ気にある。

 

言葉にもできない

思いわずらいや、どうしようもない感情を自分の性格や人生だと思ってはいけないよ。