しるしはかくれざりけり

 

神の御声がきこえる、あるいはその身に降りたという人もいる。

いかにも無神論者が証拠を求めたくなるような

まごうことなき神であるならば、私たち人間以上に大いなるものでなければならない。

そうであれば無神論者もきっと認めるだろう。

そんな神の存在をなんらかの方法で裏づけられたのであれば、その証拠や人間の知性が

神よりも大きいということになる。

であれば、もはや神とは言い難い。

 

神とは人間の心がこの世に生みだした存在だという人もいる。

不吉なこと、原因不明の病、死への恐怖、尽きぬ不安、恨みや憤怒、復讐を願う気持ちが神を生みだしてきたのだと。

すると、すべての神はフィクションということになる。

 

・・・

ときに

すべての信仰者は、さきに述べたような考え方があるのを知っている。

されど己の神を信じている。場合によっては、己の存在以上に神の存在をはっきりと感じている。

なぜか?

 

彼らは聖書を、仏典を、さらには教えを、原初の愛を読んだからだ。

書きものの連なりに、力を見出したのだ。

どこにそんな力があるのか。それは不思議であり、謎なのだ。

そうでありながらも、まごうことなく事実なのである。

 

そんな彼らの存在が謎であるように、不思議でありながら、同時に事実なのだ。

神の存在も同じように、謎でありながらまた事実なのだ。

 

 

だからこそ、私たちは知りたい と欲する。

学校の勉強にしても、個人的趣味にしても、どんなに知りたい_と恋しくなっても

親鳥がひな鳥にエサを運ぶようにそれを持ってきてはくれない。

飲み込みやすいように咀嚼して喉を通してはくれない。

どんな教えも、考えなければ身の回りに転がっている本と変わらない。

それでも向かっていく。

 

なんだ勉強しなきゃいけないのか、考え直すのも面倒だ、となるだろうか。

何もかもが嫌だなと思うなら、確かに何もかも面倒くさい作業だ。

しかし愛があると、少しは世界が変わるだろう。

 

謎でありながら、等しく事実であるという不思議な

人間という存在への愛

謎でありながら、等しく事実であるという不思議な

神という存在への愛

 

 

愛というのは知を包むから、どんどん知りたくなるのが人間なのだ。

あらゆる世界をもっと知りたいという愛も

たとえ気恥ずかしくたって、同じことなのだ。

 

そこに近づくために

多大な勇気をもって、いたずらに悪魔を見ないように

執着・欲望を愛と見誤って、迷走の果てに悲劇を生まないよう進んでいく。

 

・「私たち人間以上の大いなるもの」が存在しているという事実は「知っている」

  また信じる人間がいることは「知っている」

・はっきりと知覚できないものであると「知っている」

この途方もなく呆れる解を、事実としてこの世界が提示している。

私は あなたは、ついさっきも今も、すでに得ている。

 

・・・

 

「あなた方も神のようになりなさい」という言葉がある。確かにその一文はある。

しかし、その一文の示す知は、人間が神のようになりなさいという意味ではないのだ。

「あなた方も神のように深く愛する人になりなさい」という意味である。

というのも、愛は神の別名だからだ。

 

そのまえにおいて、ここまで書き進めてきた私もまた、信心深い人間である。

また、偶像を崇拝する人々も、たとえ目の前からひれ伏す対象がいなくなったとしても

願いや悩みは続くだろう。

(偶像とは、神や仏をかたどった像、あこがれや尊敬・妄信などの対象となっている人や物事をいう。)

 

_どんなに移ろっても、変わらないのだ。いつでも、どこでも。

_ただひたすらに、過ぎ去ってはまた訪れる一瞬のぬくもりを慈しむ。

 

あなた以外の人間や偶像は、あなたの真理にはなれない。

なぜなら、私やあなたの、彼らの代えは存在しないからだ。

この事実が、真理のない思い込みから容易く課しが生まれることを示す。

あなたの願いがあなたのすべてを動かすということを示す。

 

_私が、あなたが、彼らがその身をもって、意思をもってこの世界に示し続けている。

 そうやって、はるかかなたから訪れる情報とこの世界は

 相変わらず、互いを交換し続けている。