逆支配される支配者 ~ 弱さ ~
被害者意識や弱者立場をテーブルに持ち出しながら
個人の主張をまるで全体の主張のように叫ぶ
そのようなヒステリー性も含めて全体で認識していきたい。
冒頭の希望は
主観からうまれた視野狭窄によって引き起こされる、一種の暴力性を
おさめたり、いなしたりする知恵を形作っていく
知識として昇華されるだろうから。
言葉が暴力的に刺さるから批判された、またはヒットした。
この現象も引き金を引くのはそれまでミュートを決め込んでいた人間が
突如として手を出し始めたから起こったことだろう。
底には各々の癖、コンプレックスが毛玉のように絡まっていて
解けるきっかけを寄る辺もなく、さ迷っているだけだったりする。
ここまで書くと、まるで個人の感情は全体も同じような感情であるはずという感想をもつ。
イメージをもつ間は、たしかにあなたのものなのだから
問題提起どころか解消さえもあなたの中で完結する。
「そんな簡単に完結(解決)するなら、とっくにやっているだろう。」
私もそう思う。
その人が何らかの壁にぶつかったとき、<きっかけ>があったのなら
その人がこの現実世界で出会った<具体的な衝突>だったはずだ。
<具体的なきっかけ>に出会って、万が一傷ついたとする。
程度の差があるように、傷を癒す時間やアプローチは幾千通りもある。
このきっかけについて、素直に向き合う人間がより早く
回復・解消されていくのはさきの幾千通りあるなかで、個人の道を通ってきたから。
また、幾千通りあるなかの一つの道だと認識しているので、その他全体もそれぞれの道があると認めている。その中で歩んでいる。
素直に向き合う個人の道には、上下も後先も無関係に広がっていて、その中を歩いていることになる。
「そんなハズない」というあなた主観の常識も、通用しないほどの普遍さをもって
あなた個人に、また全体に展開されている。
なにが展開されているのか?
それは聞くまでもないんじゃないか。
あなたがもっとも求めている拠り所、安寧、幸福ってあたりでは?
求めている拠り所、安寧、幸福は、こんな地獄ではない。
求めていた理想と違っているのなら、これまでの認識(判断)や行動(方法)に問題があるのかもしれない―
そうやって全否定から入らず、自分を肯定できるように自己イメージを連れ出すことはできる。
こういった数ある自己啓発情報によって、可能性を掴んだ人もいるだろう。
また掴みかねていたり、酩酊している人もいるだろう。
方法という<具体的なきっかけ>を提供する情報に対して、「自分にハマるものが無い
」と感じている場合、自分がどういった姿勢でいるのか見つめてみるのも手だ。
姿勢には見た目にあるような話のほかに、物事人に対する姿勢(アプローチ)が対象になったりする。
「この自己啓発には自分がハマるほど熱中しない」
「あの人の発信には自分がハマるほどの魅力はない」
自分のオーダーメイドを探れば、このように否定する結果になるのは当然で
裏返せば、相手と自分のオーダーはハマるほど同じではないということ。
相手の批判材料を拡大して、否定以外みつけられないのは
相手も相手のオーダーがあるのに、そんなオーダーは空気かのように排除しているということ。
認識しているように見せて排除しているのだ。
~自分には欠けているものがあるから求めている~
これほど抽象的な欠如感からスタートしているはずなのに、かつて衝突した
<具体的なきっかけ>を解消できるのだろうか。
テーマにある弱さについて。
誰もがもっている弱さについて、ある個人だけが備えているという特別感や、
~~だから何をしてもよいという専売特許のような付加価値をつけるのは
私はその立場(ポジション)を意図して選んでいるのだ、と証明してしまっている。
弱者として世界に発信することで、強者に支配されている自分という立場がある。
問題は社会的・道徳的にわかりきっているのになぜ解消しないのか?
ひとつ言えるのは。
被支配者である人間は心理的主導権を握っているということ。
それは責任を負わずに済む安泰と、支配された対価として見返りを求めていい立場を得ているから。
誰の目にも明らかであるとか、常識で考えれば通用するだろうといった社会的・道徳的判断で強者にみえるのは支配者だろう。
しかしその実態には、支配されることで満足している被支配者心理が
裏で手綱をひいてコントロールしていることもある。
支配者は、権威性や肯定願望の達成を果たすため、支配的に主導権を握っている。
被支配者は、弱者立場を受容する代わりに、対価として見返りを求めてよいという心理的主導権を握っている。
思いもよらずに
支配者は表面を覆えても、内面は逆支配されているのだ。
ここまでいくほど、自分は思い詰めてはいないとおもう人もいるだろう。
さて、どうだろう?
・・・と考えること、また話題にするのもできるんじゃないか。
意固地になって相手の意見を否定するほどのエネルギーが費やせるなら
「へぇ、そんな感想や考えがあるのか」くらいの聴取は容易だろう。
誰かの意見が批判にしか聞こえないという人にとっては、この許容が自分の意見に成り代わってしまうのではという恐れから、否定に傾倒=エネルギー消費しやすい。
まったく問題のない場合もあれば、無自覚で思い詰めている場合もあるのが
人間の主観という視野がもたらした、祝福であり呪縛といえる。
場合というのが肝で、たとえ同一人物でも
豹変したかのように爆発することもあれば、その異常さが嘘のように、あとから優しげで柔和な姿勢をとったりするからだ。
共感・支持という評価を得るために自分の考えをただ押しとおすのは
一種の暴力といえる。
相手の考えや感想を、非難して否定する思考強制の暴力は
速さの違いはあれど必ず物理的な暴力へ誘っていくものだからだ。
そんな遠い世界のハナシでもない。
少なくとも身近な人間がとっている対応を私たちは世間体といって引き受けている。
サブカルチャーにあるような、多様なイメージを尊重しているようで
夢見る夢子さん、とかピーターパン症候群と揶揄する姿勢は本当にただのジョークで済むハナシなのか?
身近であればあるほど、<具体的な衝突>が救い手になることは
恐らく当人がよく知っているのだろう。