健やかでありますように


私たちが人の話をきくとき
何かしら相手が言おうとすることを大まかに把握することはできるが、伝えられた内容の理解は曖昧なものになる。
〝完全に理解〟してはいないのである。

新聞ひとつを取っても
インターネットを一切使わずに〝自分一人で記事の内容を完全に理解できる〟だろうか。
ある土地についての記事となると、そこは地図としてはどれほどの規模なのか、さらにその土地の偉人についての内容もあれば、歴史に関する古地図や往時の時代背景なども調べる必要がある。


専門家が、著名人がそう言っていたから。
時代は違えど、歴史的に有名な著名人や専門家がこう言っていたから。
それらは名前を出す責任を担った各人の意見であって、そのまま担いで理由とする人の意見ではない。
当然ながら、親しみを込めるためなどの理由があれば、相手に敬意をはらわなくてもいいという道理もない。

それが働くなら、おなじ人間として自分も相手と同様にうける〝立場〟に立たなくてはならない。

 

社会というものは言葉から成り立っているといえる。
まず基本として、言葉は全人類の個体差をこえた共通の手段(方法)だ。
人は人による翻訳の路をこえて、意思を伝えあう。まさに絵画は、この翻訳を介さずに伝えるように。

この手段をつかう人間を抜きにして社会は構成されない。

前述したような言葉への理解がなければ、
共有された豊富な知識、新たな社会経済情勢に必須とされるインテリジェンスが欠けていることになる。
社会には格差があり二極化しているとされるが、以上にある言葉から成り立つ社会においてはこう捉えられる。

その低いとされる一極というのは、相手を感じとる情緒といった理解力や知性という土台において_
自分以外の他者や異文化
自分以外の世界観がもつ意向や立場への理解をおざなりにしている人々だ。

 

出典:コトバンク

kotobank.jp

 

自分を変えずに他者が変わればいいという発想は、自分にはすべての道徳に関する責任がないと言っているのに等しい。
これは抜け落ちてしまうと、大変な事態になる思想でもある。
「自分にはすべての道徳に関する責任がない」のであれば「他者も同様にすべての道徳に関する責任がない」のであり、ともすれば、あなたの平和な日常を脅かすことさえ許す考えになるからだ。


出典:法務省ウェブサイト (https://www.moj.go.jp/JINKEN/kadai.html

法務省:主な人権課題

 


正直に言って、それがまかり通る社会となると気楽につぶやくことも出来ない。
ネット上で起きた人権侵害が原因となったうつ病や自殺が引き起こされるように、言葉は使う人間によって物理的な暴力を呼びよせている。

 

たとえ不慣れであっても自覚や理解する姿勢を獲得していくと、他者と同様に自分にも批判できるようになっていく。
「経験上、このケースでは自分の意見が正しいに決まってる」
「また考え直すなんて、めんどくさい」
「自分からでた意見をそのまま出すのに、抵抗がある」

このような気持ちはよくわかる。
ふりかえって批判するのは楽しくはないし簡単でもない。それにほんの少しであっても、自尊心が脅かされると感じることもあるだろう。
それでも、他者にむける自分の考えは批判してみたほうがいいと伝えたい。
非難ではなく、批判である。


・ ・ ・

たとえ些細なことでも、自分からであっても
批判がうかぶと、死を連想させられるいう人もいるだろう。
真剣すぎると感じるかもしれないが、それこそ私をふくむ他者とは程度の差にすぎない。
決して否定しないし、守りたい気持ちである。

 

個人的な考えなので、鵜呑みにせず読んでいただきたい。

数えればきりが無いが、死そのものを恐怖するのではなく、その〝恐怖する感情〟の多くは各人がもつ貪慾、道徳に反するような迷信、妄執、払いがたい愛着の念という、その性質や境遇をもとにするのだろう。
それゆえに、
ひとたびその各人の事情が変革されて解脱するか、

あるいはそれらの事情を圧倒するような他の事情におおわれたとき、死は敬うことなく扱われる…。
あるいは恋のために・名のために・自由のために・度しがたい苦痛から逃れるためにそこへ猛進するものすらいるのではないか…。


気持ちの折れる過去があった。
不意におぼえたその感情があった。
それゆえに、自分を嫌悪しても
あなたの感情・気持ちの一つが、これまでのあなた自身の一生を覆い隠すことはない。
決して、だれも一時の感情と、長い一生を取り違えることはないように。

おもうことは、よりよく生きたいと願う源泉である。