二月十六日 ジュウルクニチー(十六日祭)
どこも好きだけど
ここから眺めていることが多い
遠目から気づいた玄関の明かりに、ほっとする感覚に近いのかな
5秒後猛ダッシュでやってきた
真っ直ぐだなあ
写真を撮っていると、視線がつよく向くんでしょうね。
けっこう離れていても気づかれます。
この、はじけるような命をみると
こちらも息をのんでしまう。
この姿をあとから見返せるようにと写真に撮るのですが、やっぱりね。
生きてゆくのだから、この一瞬に鳥は脱皮しているのです。
歩いてどこかにいくから、こちらがまた見返しても足跡だけが残っている。
こうゆうのは、物象から名前をとりのぞいたときに
ありありと見えてくる。
もちろん、人も同じです。
こちらから向こう側を眺めるとき、自分とは立場が違うだけで
あっちはどうだろうか、何者だろうかと次第に謎めいてくる。
向こうの景色は見えませんから、その正体もはっきりしません。
確かなことは、この身もその正体も地続きだということだけです。
謎を自分が楽しんでいる場合は、その謎に向かっていけるかもしれません。
いいもわるいもその身に引き受けたから、その謎は未知なのでしょう。
謎であることが不安な場合は、見向きもしないかもしれません。
わるいものは全部向こう側に任せてきたから、その謎を知っているのでしょう。
たいていの言い分はそこだよ。
おとぎ話、「御伽」はこんな夜中に口伝えで語られるものだったりする。
朝目が覚めて、みんな夢をみたと言っている。