笑顔の由縁

お題

10年で変わったこと・変わらなかったこと」があなたの今を作る

 

10年といいますと、多くの節目を感じる単位ですね。

お題は10年ですが、これより永く続く今日のテーマが

ここ数年の変わり目であったようにおもいます。

 

 

❝ 笑い ❞ 

 

笑いときいて、いったい幾つもの表情を思い浮かべるでしょうか。

笑いがこみ上げる、ほろほろと笑う、歯をむいて笑う、微笑、苦笑、

 

どうやら私たちは赤ん坊の笑顔から、幾千にも分かれてきたようですね。

 

だれかがほろほろ笑っているのは、心地いいです。

なにより、心地いいと感じるのは 奥そこの本音が透けて

それを見抜いているから感じるのでしょう。

 

おもえば、笑いというのは伝染するもので、また共感をよぶ行動です。

だからあっという間に広まるし、いつしか人間社会そのものを飲み込むものです。

そういう見方をすると

笑いと信仰が隣り合わせだったことに頷けます。

(どのような神仏や精霊がおもい浮かびますか? 沢山ありますよね。)

 

 

人間社会そのものを飲み込む ときいて、大袈裟なとおもわれたでしょうか?

そうですね、また御冗談を。と楽観して、徒然草っぽく流し読みしてもよいのですが

不確実で、0か100かの極端思考をもって選択に悩む

そんな姿をみていると、ある程度固さのあるテーマも、柔らかい頭でみてみる必要があると思えてきたのです。

 

ふふ、ちなみに「ご冗談を」というのは「嘘おっしゃいよ」の代わりに用いられたものだそうです。

ある時代を境にして、言葉を代えてしまうほど日本人は嘘にたいして潔癖になったようですね。

 

・・・・・・

 

0か100かの極端さはもったいない。

多くの偉人も「人の目なんて気にするな!自分らしく生きろ」と仰るのは

それはそれですっきりするものですが「人の目なんて関係ない!」と振り切るのは

いろいろと責任を棄てた自暴自棄な生き方です。

 

人の目を気にし過ぎるのは、すべての人に嫌われたくないという気持ちがあるからです。

それを極端に振り切れば、すべての人に嫌われたくないことになり、最終的には

すべての人にとってどうでもいい人に行き着くんです。

 

自分の存在を消すことでしか身を守る術がないなんて、悲しいじゃないですか。

 

すべての人に好かれることが幸せなのですか?と問われて正直に話せる自分がいますか。

 

そうではないでしょう。馬のあわない人間関係だってあります、こればっかりはねと

お互いに認めて続けるご縁もあります。

そんな世の中で、自分にとって本当に楽しい人生、充実した人生を作っていくことが

永いあいだの人間の努力でした。

そのうち不思議なことに、その生き方を気に入らないという人間がでてきます。

端からみたら幸せそうな人が気に入らないのです。

こういった評価を見聞したのなら、「どうやら私は自分の生き方を生きているらしい」と感じればいいのです。

 

「あいつ、嫌いだよ」と言われたっていいのです。

 

 

0か100かの極端思考で、ちょっと横道にはいりましたね。

よくスピリチュアル系では、ポジティブ思考・ネガティブ思考どっちだ論が

定期的にあがってくるので、提示してみました。

お察しのとおり、どっちもいいんです。自分にとってのいい塩梅を調理できればいい。

0と100の間にある、鮮やかなグラデーションを描いていっていいんです。

 

 

笑う門には福来る として殊更に笑顔を伝えるのも、それは賑やかなことです。

そこはまぁわかるのですが、この笑顔の裏にはこんな大変な想いがある、苦しい過去があると裏をくっつけてくるのは不思議なパターンです。

 

 

本当の笑顔というのは、そんなに辛い想いをしないと得られないものなのでしょうか。

 

 

たとえば、人の目に分かりやすく見ために表れていたら、確かに共感を得やすいでしょう。

では、その身に流れる血はどうでしょう。混血児として、自分ではどうしようもない不幸をもつ人は取り上げられない(共感されない)のでしょうか。

 

自分を幸せな人に見せたいのか、自分は幸せな人になりたいのか

 

ここまでお読みいただいて、「いい塩梅ってのは それもいいかもしれないな」と

そんな風通しが生まれたのなら幸いです。

 

 

 

よく、この両極の考えをもって、ある程度の共感者を得た人たちのなかには

上記のような辛く苦しい過去が、❝話の材料❞にされがちです。

その生い立ちがあるから、今の自分がある。

それはその通り。

 

今回テーマにしている「笑い」は、サブテーマとして信仰や社会をあげているので

この点に立ちかえります。

信仰や社会に、この❝話の材料❞が持ち込まれたとき

不思議なことに、[あらゆる人から同情をうけるほどの苦しい過去]が一種のステータスとなっていきます。

 

共感者からすれば

きっと、あの人ほど辛い過去や経験がないと、自分はそこまで幸せ(素晴らしい人)にはなれないんだろう。

きっと、自分はまだまだ未熟だから本当の幸せが分からないんだ。もっと苦しい経験が必要なんだ。

 

そういって、0か100か思考へ、ふいに陥りやすくなります。

いずれは、自分の幸せにリミッターをつけて、これ以上の幸せを望んじゃいけない。

バチがあたってしまう。と。

 

 

 

そうして、一定数の迷える層・時期が生じます。

その人の生きている時間が、そのように巻き取られる様子をみるのは

苦しいものがあります。

 

時間は有限です。命があるからこそ、愛情を享受できる。

すべてのものに等しく、無償で与えられた時間という愛がまずある。

死がその時をわかつまで。

魂がその時を結ぶまで。

 

何に飢えて、何を追いかけているのでしょうか。

この❝何❞に「時間」と「愛」を重ねてみるとわかりやすいでしょうか。

 

語る人は、そこまでの波及を考えたことはないのかもしれません。

思いもよらない運びだったかもしれません。

しかし、結果としてそういう思いを生んだことには変わりません。

また、過去にはいくらでもそういった不幸な御伽話はあるのです。

 

 

そういった一連の流れを、この10年、もしくはそれ以上の時間が

そろそろ意識の棚卸を迫ってきているように感じます。

 

 

笑うものと笑われるもの

その関係が生まれるのは、身近に笑われても構わないもののいる間です。

 

身近だったのは、無縁の人でしたか?

身近だったのは、過去の自分でしたか?

 

それらをひっくるめて、一心同体となった自分こそ

ずっと追い求めてきた姿であり、本願なのではないでしょうか。

 

うれしいたのしいと 微笑む世の中で

溢れていってほしいとおもいます。

 

先々の厄難をまぬがれるためのお役立てに、この微笑みが

社会を安らかに、楽しくする機会はいくらでも想像できますし、

それを望まなかった親(あるいは神仏等)というものもまた有り得ないのです。

 

 

 

 

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

 

どうぞ、あなたにとっての笑顔の理由が

大切なもののためでありますように。

間違っても、その笑顔の理由が

苦しめるもののためでありませんように。