ナキサワメ

世持神社 参拝(奥武山公園内)

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最近、白にゃんこを見かけない。
まあまあ長いにゃんこだったからな‥。

ほろりと泣きそうになる。
「んにゃーー。」

しみじみしていると背後から鳴き声が


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君か。
元気だった?よしよし。

後ろのハチワレにゃんこ(ガン見)も一緒に見かけますが、いつもこの距離感を保っていますね。
黒にゃんこが居ないときは近寄ります。

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テーマの「ナキサワメ」に、過去記事の「笑顔の由縁」を添えておきましょうか。

hinoen.hatenablog.com



泣くも、元は声をだして鳴くものですね。
鳴くは猫や鳥や虫にも共通の表現となり、生類以外についてはナルと呼んでいたわけですから。


「かなしい」をただ不幸の表れとして、忌みきらうようになったのはいつ頃からだろう。
東北ではカワイイの代わりに、かなしい を用いるところがあるとききます。
沖縄でも、愛しい・カワイイを指す方言に、カナサン といいます。
カナサン=悲しいと訳すのはちょっと違うとされてますが、語源としては一緒だろうと思います。


その身に沁み入るような強い感覚がカナシイであり、悲哀のみを取り出しがちな現代は

言葉にしようのない涙を生み、言いあてる言葉を探すうちに、声を消して泣くようになったのかもしれませんね。


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うーん、着目する点としては
また昔のように泣いたり笑ったりすればええじゃないかという訳でなく
泣かずにすむようになった発達の兆候をみることにあります。
ここでいう点は、好き勝手に泣かせればいいなんて放棄を求めていません。

それでは今、代わりになったのがなんなのか、それがうまく行われているのか
そういった観察眼を忘れてはいけないように思います。


表現手段は言語が唯一である、という認識こそ
悲しむべき惰性とよんだほうがいいかもしれません。
顔のみえないネット上では顕著にでやすい。百聞は一見に如かずを逆手にとる捏造も多い。
発信者の非言語が言語にともなうとき、自由だけでなく責任も素のまま生じる。これを避けたい旨もあるのでしょう。


相対する瞬間が迅速に過ぎていく
そんな刹那に膨大な情報を交換している
あなたも私もあの人も、刻刻と重なり合っている



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アコウ(クワ科)の木の落ち葉

ちょうど木の真ん中辺りで鳩が写ってます。
この鳩、華麗に向こう側から世持神社境内を旋回して目前を飛び去っていきました。

落ち葉の写真を撮っていたときの登場でしたので、期待?に応えるべくシャッターをきりましたよ。
2回ほど飛んでくれたので撮れました。見切れてないのでセーフです。


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参拝後、鳥居のそばに白にゃんこがいました。


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あのポタポタ歩きは間違いない。

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会いたかったよー。心配したよー。よしよしよし。

目線の先には、子どもの集団が。


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「帰り道はこっちだ」

わかってるよー。(*^_^*)
ありがとうね。