問題視、特別視。もたらされた神仏観と人間。

 

エスチョン、はてな

疑問、今後の課題、深淵をのぞく、、。

 

それを、どちらに向けますか?

社会に向ける

文化に向ける

神仏に向ける

自然に向ける

自分に向ける

 

この心の向きを加速させる、強調するはたらきがテーマの通りでしょうか。

問題にする、特別にするということは、「揺るがない意味」をもたせる ということかな。

 

そこに個性を見出す。それは同時に、問題視し続けること特別視し続けること

になりますね。

 

上記の~に向ける はどなたの目線?

私や、あなたの目線ですね。

 

ラフに考えるならそこまで真剣になることもないでしょう

では、

もうこれ以上突き詰めることはない、悔いはないとおもえるほど

真剣に考えたことってありますか?

 

提起されて、質問されて

コメンテーター、タレントのように

次から次へと笑いをふりまき、その大衆コンプレックスを評論するメディアと

「違う。一緒くたにしないでくれ。」

と声をだしたくなるほどの、真剣さを。

 

声なき声もありながら、おのれの声をただ張り上げる 道具 にされる。

声なき声は世も末だと思うでしょう。

 

声にならなかった声は、問題ではないのか 特別ではないのか

勝手に問題に、特別にしたのはだれだったのだろう

 

心の内に問い、その先で、うずくまり泣いている 小さきもの

私はそれを個性と呼びたい

 

そしてその小さきもので溢れているから 日本という国は何度も

立て直されてきたのでしょう。

 

少彦名大神のような 小さきもの の声をきくことが当たり前だったのかもしれません。

少彦名大神より 大きななりをしていながら、多くのコンプレックスを抱える人間。

 

海の向こうからやってきた少彦名大神は、古事記でもその行方はこれだけ。

大国主少彦名命は、相並んでこの国を作り固めました。

その後、少彦名命常世国(とこよのくに)へと渡りました。

 

たったひとりで海の向こうへ流れていったらしい。

残された この国 には、いったい何が伝承されたのでしょうか。

 

同じ海からでも

ヒルコの神(水蛭子、蛭子神)とは、全くその後の対応が違いますね。

商売繁盛の恵比須顔・・・

狩衣姿で、右手に釣り竿を持ち、左脇に鯛を抱える・・・

ありとあらゆる❝福福しい❞シンボルを背負っています。

 

福福しさと相反する水蛭子、蛭子神の御神名のなりたちに

思いを馳せれば

切実な願いたちを、一身に背負ったのか。と行き着きました。

 

―不幸なものを依り代にしたほうが、幸が憑きやすい

言葉に引っかかるのは、そのまま心の反応とみたほうがいいでしょう。

なにもなければ声は無視されます。

 

生まれたての王子は、いったい何を背負って水に流されたのだろう

大衆的にいうなら 災厄 を負わされたといえます。

 

私たちはなにもかもを水に流して、一年を景気よく迎えようといって

活気づく。

おおくを背負ったエビスの神は、派手派手しく、ひたすらに陽気で、笑っていることが求められている。

 

 

いろんなエビスの神の表情を、見てみたくなってきました。

 

眉間に皺をよせて酒を利く神にもなってほしい

おしるこの御餅をふーふー吹く神にもなってほしい

 

そんな福福しい表情もみていたい。

 

今となっては、多くの由来の集合のはてに位置するなりたちを

解き明かそうとは思いません。

思わなくても、ここまで書いてきた文脈から

エビスの神や少彦名大神

脈々と波打つもの が思いもよらず伝わるのでは?と感じています。