七五三
七五三詣りの親子で賑わっていましたよ。
比較的静かなポジションで座ります。
向こうで写真撮影をされてましたが、泣き続けている様子。
こちらへ歩いてくるころにはケロッと泣き止んで
ころころ笑っていました。
お詣りの日々をよくおぼえていてね。
思い出に残っているものは小さな事かもしれないけれど
事は過去にありつつも、新しくもあり、疑惑の種でもある。
私などは端からその姿をめでながら
いつでも、おふるでないものを差しあげたいと思っているのです。
のびのびね。
成長した木や流れる水も、これは自然のことだから といい
すれちがう日常というのがあって、今日の結果はそのまま地層になる
静かに考えてみると、その地層も一長一短がある
はじまりから見て今が端とするなら
長ばかり眺めて短に気づかず、それゆえに後悔もせず
またほおっておけば、その端は目の前の現実であり、私たちの生活にまつわる。
バランスですね。
どうしても、ひとりの力では始末の出来ないようになっている。
思いを馳せたり、ともすれば恋しくなる心も
人の内面なのだから変わるはずもない
空を見上げてぼんやりとしていた男の子も
いつかあの日の空として、頭に浮かぶ日がやってくる
時代の進歩は目覚しく、AIやVRと仮想の空間が広がっているでしょうが
機械にとって、最も理解不能なのが
まさに男の子の眺めていたあの空です。
指示や目的に沿った情報をヒットさせたいのに、そのような無意味とか煩雑になりうる日常の景色は、はじかれてしまう。
しかし私たちはその景色に、あらゆる記憶を結びつけて思い出す。
人の取りこぼすかもしれないミスというのは、その結びつきから得られた学びというのが往々にしてある。
機械の完全無欠さと、自らにも湧くような心を求める
一長一短から短を除こうと熱心に研究する方々に向けることではないので断っておくが、どうにも、これは命題のようにおもいます。
短=ミスを除くのならば、バグを起こしてはいけないのです。
端からみれば、たいてい人は恋しくなる性分です。
どのような人間か見定めるのは、これまで記事で書いてきたように
行動次第になりますね。
夏は酸っぱい味が、秋は醤油の香ばしさが、冬は味噌の深さを賞味したくなるのです。
理にかなっているから続いている。
要らんといっても
ひとつに纏まるために、必要とされる性分だから続いているのでしょう。
この道理は、どのような博識や知慧をひっさげても
紛争を増長するような弁舌や屁理屈にも、覆されることはなかったでしょう。
だからこそ子孫として、私たちはいるのですからね。
癇癪をおこしてひっくり返しても、どもならん事です。
今日見た景色はなんだったかな。
あの日の空を浮かばせてごらん。